空気のにおい

時々楽しい

IQさえ高ければ無条件で素晴らしい人生が送れます!(大嘘)

私の両親は二人とも知能指数が著しく高い。母ですら135はあり、父に至っては140以上ある。

二人とも成人してからの測定だ。測定法が少し古い時代のWAISだろうけど、まあそれでもインターネットのものなんかよりは充分信用に値すると思える。

ところで、私の知能指数は100程度しかない。この実情をみて、私はIQは遺伝的要素が強いとかいう説には少し否定的になる。そして、私の結果はとんでもなくその中身がバラついていて、まるで有能な人と普通の人と幼稚園児が入り交じっているようだ。測定法はWAISⅢである。

総合で見ると100は日本人における平均だが、私の場合はこの中の細かいところを覗いてみると、数値でいうと130以上や60未満が混在しているのである。

私自身の頭の中も、他人が私を見た場合も、非常にカオスな状態で、君は饒舌に話せるのになんでこんな簡単なことが出来ないんだ?という感想をよく貰う。因みに常に白昼夢のように考え事が止まらないところもあるので、即時に臨機応変な対応がとれない。

知能指数が130だか140だかを超える者、又は特別な才能を見出された者を「ギフテッド」と呼ぶことがあるらしい。そうだ、凡庸な親ほど子供に特別を求める。自分の身代わりになんて絶対にならないことを知りながら、或いは認めたくないままそれをしてしまう。

子供の発達検査では様々な様式が使われるが、子供の能力を一番客観的に教えてくれるのが「WISC」の類であろう。(但しこれも子供の能力が平均の場合からは高めに見積もる傾向ありと感じる)

周りから勧められたり、親御さんが自ら病院に赴き子供の能力を測った時、「この子の知能指数は平均より高いです。」やら「この子はとても知能指数が高い、所謂ギフテッドです。」だなんて医者から言われたら、きっとどの親でも頭の中で涎がドバドバ溢れてくるのではと思う。これは親の知能指数が著しく高くない、若しくは低くない、いえば平均であるほど顕著な気がする。何故かというと、「自分ができなかった特別なことを子供が成し遂げてくれるかもしれない」という期待をしてしまうからであろう。

…ただ、子供の知能指数は年齢が低いほど上下のブレが激しく、安定してくるのは大体小学校高学年からという話もあるので、幼少期は神童だったのに…ということも往々にしてある。というか殆どそのケースである。

実際、私は四歳になっても言葉を発しなかったが、両親は「この子は言われたことは理解出来ているし用心深いから問題ない」として全く発達障害を疑わなかったという。後の知能検査でも言語の面は平均より高いと出ている。検査項目によっては観察能力とともに突き抜けている。

人生のピークを幼少期にしたい人はきっと少ないと思う。偶然からなる親の期待は子供が受け取る頃にはプレッシャーに変わっていることを忘れてはならない。これは勿論放ったらかして、「俺の子供だからなんでも有意義なことを勝手にするだろう」と言い放つ私の父親のようになれというわけでもない。

私は両親から「お前が行くところは、東大京大以外はない」と割と強く言われていたが、やはりそこは全然上手くいかず、ある種の教育に対しては完全拒否状態であった。私の両親は、知能指数があまりに高いために、それが平均ほどの私の行動、奇行を見ても「出来て、やって当たり前」としか思わなかったのである。

私の問題は幾多もあるのだが、まず、宿題が出来ない。(というか、やらない。)何故学校以外の場所で勉強をしなければならないのか分からなかった。私にとって学校以外のところは全て「余暇の場所」であったため、何故その領域を侵犯されなければならないのか分からなかった。夏休みの宿題とかいうものも提出した覚えがない。試験で満点をとってもこれで通信簿において減点されていたことに気づき始め、徐々にやる気を失ったのが小学二年の頃である。

だから、予習復習も高校時代になり「必要」と感じるまで一切やらなかった。勿論学校では落ち着いて勉強していたが、不登校時代は勉強が趣味で辞書を抱いて寝てるような(誇張表現なしに)父親に怒鳴られ、号泣しながら期日ギリギリでZ会の課題をこなしていた有様であった。

私は書き学習、反復作業に全く向いていない脳である。だから、字を覚えるのも遅かったし、算数も非常に苦手だ。(後に学習障害の一種と認められる)ただ、それ以外の学習にはあまり苦悩しなかった。理解と記憶が同時に起こると自己分析している。

ただ、それが苦痛でもあった。何故なら教師が「紫駄目(※このブログの著者のハンドル)ちゃんは学校に行っていなくてもこんなに点数取れるのに、なんで毎日来てるお前らはこんなんなんだよ」と、私を他の子を罵る題材に使うからである。

当然私は周りから嫉妬される。「紫駄目、カビョウ(仮病と言いたかったようだ)の癖にうぜえしキモい!」そしてさらに嫌がらせを受けた。

正直、学校生活においては義務教育時代はほぼ全てが死ぬほど嫌だった。毎日死にたいと思っていた。知能指数に差があるとコミュニケーションに問題が出るという俗説があるが、私の両親は、私が物分りが悪い理由が本当に分かっていなかったようである。ここでは頭が良いという定義をIQが高いということにしておくが、そういう人は頭の良くない人の気持ちがさっぱり分からないという傾向はあると思う。

結局、人は人を大人になるまで、さらにそこから先に人生が進んでいくまで、というか、死に至ったその後まで評価を翻すので、本質的に人をギフテッドと呼ぶのはとても難しいことではないかと私は考える。特に、幼少期は前記の通りに振れ幅が激しく、環境や周りの情緒にも左右されやすいので、易々と天才だと思い込むのは早計であると言いたい。

大体、普通は数が多いから普通なのであって、多数の人間の共同体に収まることが出来ること以上の喜びがあるのだろうかと思う。どう考えても、生物学的にそちらの方が普段は有利で、社会でも然りであることは明白である。生殖のチャンスにも恵まれている。だから、己が平均、普通であるならば、普通である喜びを噛み締めて生きて、たまに、そうでない人達のことを思案してくれたら、それで良いのだと思う。

なんだかいつも以上にまとまりのない記事になったが、私は、友人に恵まれず、他人と会話が成立しない苦しみに打ちひしがれているという両親の気持ちが痛いほど分かる故に、更にそう痛感するのだ。

知能指数が著しく高い者は、人口の約数パーセント、もしくはそれ未満である。即ち、彼らは人と分かり合えるチャンスが少ない可能性が相当にあるのだ。分かち合いや関わりは人間が根本的に欲求するもので、だからこそ、人はそのために幾多の生物の中でも数少なく言葉を生み出すものとなった。

自分の弱さで優生主義気味になって、ついつい拗らせてしまう方達にこそ、この重みをよく感じてほしいと私は思う。