空気のにおい

びょうきのブログ

夢日記1

私は旅の中で、廃墟にも見える虚しく大きい円柱状の、上の階が崩落している巨大な宿泊所に赴いた。
頭に布を巻いた中年男性の案内人は、その“ホテル”に泊まるように私に勧めた。
しかしその時頭の中に音にならない声が入った。
「ここは重い罪人が、二度と入れなくなるためにあるものであり、貴方がそこに入れば、幻の柔らかな寝床と豪華な食事が置かれるだろう。従業員らは皆白い服を着ているであろう。しかしその白地も、寝床も、食事でさえも偽りであるので、貴方はそれらの真の姿を見るであろう。」
私はそれでもなお、その宿泊所に入ることに決めた意思をその話し手に送ると、その話し手はこう付け加えた。
「もし貴方が重い罪人であるならば、貴方は他の者達と同じく今日の夜にここで火に焼かれて死ぬであろう。しかし、死ぬことがないほどの知恵を貴方が持っているならば、同じく残された者を仲間としなさい。」
私は了承の意思を送った。


宿泊所の中は確かに、表面は豪華絢爛であった。しかしそのメッキの裏の古く脆弱な骨組みが私には見えた。地下一階には巨大なビュッフェがある。そこで皆、美味しそうに、必死になって、料理を貪っている。
よく見るとその者らは、私の小中学生の頃の同級生、教師や、その後の災難の関係者であった。
その家族もいた。
私はそれを見ても何も言わなかった。
彼らは私の存在に気づきもしなかったからである。
ビュッフェのものら全ては、私には生ゴミのようなものが均等に並べられているようにしか見えなかった。
だから私は一口も手をつけなかった。

そして、この建物内の働く者達には実体がないことも感じた。だから、彼らが私の視界を横切る時には寒気を感じた。

私は三階に上がり、電化製品のコーナーを見つけたため、そこを眺めていた。ここの商品は真のものであった。
その時、突然案内人が叫んだ。
「地下のビュッフェで火事が起きた!火炎は消えそうにない!」
当たりは騒然となり、パニック状態となった。
私は心の中で確信していた。「三階にいれば、焼かれて死ぬことは絶対にない。」
私はそこにいた者たちに、大声で伝えた。
「ここに残れば死なない。今別の階に行けば必ず死んでしまう。だからここに残って、布を濡らして口と鼻にあてて下さい。」
私の声を信じて実行した者は、双子の女性二人と、背の高い男性一人であった。
ほかは皆上の階に上がったり、めちゃくちゃになっていた。下に降りていく者もいた。

私の頭に下の階の惨状が映った。私に害を加えた者達は一人残らず焼かれた。その家族は更に惨たらしく死んでいた。
そして私たちの階にも、黒い煙と毒ガスが迫っていた。
私たちは布をあてて、身を屈めてひたすらに耐えた。
しかしもう限界に近くなっていたので、私は「焼かれて死ぬのではなく、呼吸を奪われて死ぬのか」と感じた。
その時である。強い閃光が私たちのいる階にさしかかり、私達は思わず目を瞑った。次に目を開けた時には汚い空気は全てなくなっていた。

私の脳の中にもう一度下の階が映った。

あれほど激しい火災は嘘のように収まって、すべての火が消えていた。

双子が一言発した。「私が目を開けた時に、私を憎んだものがすべて死んでしまった。」
男が一言発した。「この俺は、今まで長い間盲目だった。だから、俺を憎んでいたものが誰か分からない。」
私は一言発した。「私に憎まれていた者はこの中にはいないのですね。」
私は声の主に気づいた。不安が確信へと姿を変え、生まれ変わった。それらの主は、三神一体である。
ここにいた私たち以外は、皆、死んだ。
四階以上に登ったものは毒の煙で窒息したり、幻の階に上がって足をすくわれて落下した。
私たちの足元より下の者は皆、苦痛の中にあえいで死んだ。遺体も、骨も残らぬほど焼き尽くされた。
主の御声が聞こえた。
「罪人の楽園は死んだ。貴方達は相応しくないから、出ていきなさい。貴方達がそこにある家電や、ケーブルの一本をそこからもぎ取っても、最早貴方達を糾弾し、罪を負わせるものはどこにもいない。あの者達は、電気を糧とするものが“樹木から生える”ことを知らなかったのだ。」
これらには、私たち全員が聞き従った。
私達は跪き祈り、私は溢れるほどの感謝の念と信仰を声の主に送った。
私のみが、言葉がなき頃から、三神一体と意思を通じ合わせていたからである。
私達は洗濯機の果実、冷蔵庫の果実、エアコンの果実、電子レンジの果実、オーブンの果実、パソコンの果実をもぎ取った。それらは豊かに実っているために重くて持ち上げられなかったため、私は宿泊所の中庭の健脚な鯨に全てを飲み込ませた。
私達はすんなりと宿泊所を出ることが出来た。主がそのようにしたためである。
案内人が外で倒れていたため、私はそれを拾った。
案内人は私を欺こうとしたことを激しく悔いた。そして、「貴方様達のその心に応えることは最早私には出来かねるでしょう。ですから、私やその子孫達すべてが貴方様達に従えるでしょう」と頭を下げた。
こうして、私達は、新たに暮らす場所を求め始めた。
乾燥した大地に夕日は赤く見えた。私はそれを指で三角を作って囲った。

十数年越しの乾癬再発?いやいや、蕁麻疹。

昨晩、赤い楕円形の発疹が腹部から腿にかけてぽつぽつと出現した。
そのうち三箇所ぐらいがかゆい。
その発疹を見て、始めは冷や汗がどばっと溢れた。私は児童期の頃に乾癬という皮膚病を発症した経験があったからだ。
乾癬(私が発症したのは尋常性乾癬)とは、今時は検索すると画像ごと病態を知ることが出来る。
私の場合はネットで出回っている多くの画像のような重篤な症状にはならなかった。
今頃こんな勘違いをする人は数少ないとは思うが、乾癬(かんせん)という皮膚病は自己免疫疾患の一種という説のようで、つまり伝染性はまったくない
患部は赤い、または赤白く、白い粉状のフケのようなものが落ちることがあるが、
それを不潔だとか患者に言うのは非常に失礼なことなので辞めていただきたいとここで勧告させてもらう。

児童期の私は、ある日赤い発疹が出始めて、数日後もう一度見ると、それは中心にかけて白いかさぶた状になっていることに気づいた。
すっ転んだのかと思って放置していたら入浴の時に母もそれに気づいた。
もう、なんで早う言わへんねんと叱られながら皮膚科に行った。
どんなことをされるのかとビクビクしていたが、何分か目で診られ、患部(痛みはない)を触れられたただけで、当時としてはホッとした。
暫くすると院長が複雑そうな顔で私と母にパンフレットを渡してきて説明を始めた。それが乾癬との邂逅であった。
患部は背中や足が主にあったが、あまり目立たなかった。少し痒みはあったが、そもそも私自身、性格上自分の外見は気にしない方であった。
紫外線での治療と日光浴、早期発見の甲斐があったのか半年から一年前後で寛解した。
それからは乾癬の存在は記憶の片隅にはあったが、それらしきものが体に現れることはなかった。

ところで私は父母両方、特に父が頻繁に蕁麻疹を起こす。私も稀に蕁麻疹を起こす。
それは主に質の悪い魚を食べた時や、ストレスに起因することが多い。
精神科の薬で薬疹が出たこともある。
そして、昨晩はちょっと質の劣ったマグロを食べた。そしてその前日にはあまりに無気力で滅多に食べないカップ麺を食べた。
乾癬の再発を恐れていた私にその記憶たちは待ったをかけてくれた。
どちらにしろ皮膚科に赴くしかないが、多分蕁麻疹だろうなと希望的観測をする他ない。…あと、痒い。

追記

湿疹+乾燥、敏感肌でした……ああ、やだなぁ、こんなところだけ感度良くても嬉しくないって。

障害者は子を産むなだって?いや、そもそもこんなところで子を産むこと自体が誤りだからね。

日本人の価値観は概ね狭い割に漠然としている。
民主主義の顔をしているが、実際には最大多数の最大幸福への具体的な考えどころか、そもそも功利主義というものすら知らない者が多い。

染色体異常児の堕胎という議題ひとつにおいても、
「その子供自身の出生後の幸福が約束されるか」よりも、
「真面目に働いて血税を払っている自分達がその子供のせいで不利益を被るかどうか」の方が重要だという考えの人も少なくないと感じる。

そんな人間たちを目の前にして、誰が子を幸せにできるのだろうか。
自分が偶然健康であることにしか誇りがないような、寂しい人間を優先する世界に未来があると信じている者たちは、
まさか福祉をあくまで額面上だが推し進めている日本に居座る資格があると思っているのだろうか。
どんな人間でも、動物でも、痛みや快を知っているのなら誰もその命そのものに口出しする権利などないにも関わらずである。

障害者や、障害児を産んだ親に石を投げるような人間が周りに一人でもいるならば私は健常児すら産むべきではないと思う。
子が意識のない胎児の段階で検査して、異常が見つかれば中絶するということは、今では不妊治療の現場等で行われている。
だが、それをしたからといって絶対に健常児が生まれるわけではない。
殆どの知的障害は原因不明で、殆どの自閉症も原因不明だ。原因遺伝子が分からない疾患も数多くある。
「健常児以外お断りだから生まれる前に遺伝子検査したのに、生まれて数年で検査ではわからない障害が見つかった。生きる希望を失った。早く死んでほしい。」
折角生まれてきて、無限の可能性を秘めていて、必死に愛を求めている我が子に対し、ここまで冷酷になれる親も残念ながら存在するのだ。

そしてめでたく健常児が生まれたとしても、その子供が人生において親である自分のプライドを傷つけずに、
順調に教育を受け、就職して、老後は世話してくれるという存在になることは、今の日本では非常に難しいことであるのは百も承知のはずだ。
いくら財産を持っていようと、後天的な病や事故は容赦なく襲ってくるものだし、完全治癒、寛解する病などまだまだ氷山の一角である。
どれだけ選別しようが障害児は永遠になくならない。なぜなら必要だからだ。
本当に不要であればはじめから生まれてこない。
もし、未知のウイルスから来る病に多くの人々が苦しめられることが将来あるとすれば、それに対する抗体を持っているのは、
今また産声を上げた、または上げられなかった障害児なのかもしれないのだ。
タマゴを産めるメスの鶏がどれほど人間の目線で優れていようと、オスの鶏がいなければ子孫を残すことは儘ならない。
私が言いたいのは、遺伝子というものをそう簡単に理解したつもりになるなということと、
親個人ですらその子がどうなっても愛する覚悟がないなら、子を産む事自体が誤りであるということだ。

そもそも、親が虐待死させるまで子供を放置する近隣住民や、まるで機能していない児童相談所にあふれ、
尚且つ保育園一つ建てることにごちゃごちゃうるさい連中が、貧しい権利を振りかざして建設を辞めさせようとするようなこの国に、
これからの子育てそのものが務まるわけはないのだから、現状、産まないことが正解なのである。



彼らはどうするつもりなのだろう。「見かけ上の利益」「保身」「見栄」に拘りすぎて、自らが人であらざるものになりかけているというのに、
どうなるかなど最後まで分からない胎児に対して審判を下す資格があると勝手に思い込んでいるのだ。

私には彼氏はいるが、私が性恐怖症のため、おそらく自分の遺伝子はここで終わるのだろうと感じている。

障害や病を抱えた子や大人が著しい苦しみを感じている場合の倫理的な死の権利を、政府が認めない限り、私はどんなかたちの子だろうが、それらを産む事自体に疑念を感じ続けるであろう。
それは私が、生そのものこそが極上の幸せであるとは、まったく考えていないからである。

何故弱者に支援が行き渡らないのか。何故合理的配慮の重大性を理解しないのか。
この著書を読むと、日本の福祉が砂上の楼閣に過ぎないものであることが如実に分かるであろう。


「僕だって普通に生きたかったよ―ある自閉症児の生涯」

http://amzn.asia/2Kp2T4U

HSPとは?何?なんだそれ?アスペルガーとの表裏

あの…いきなり申し訳ないのだが結論から言うと私はHSPではない。
アスペルガー症候群HSPは同期しないからだ。

↓参考にて…

生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち | いつも空が見えるから


例えるならなんだろうか。
収斂進化というものがあるが、これは生物学的分類では元々全く違うものが、
見た目上で同じ役割を果たしている器官や形態なんかを言う。
わかりやすいのはモグラとオケラの土を掘るために特化した足だろうか。
独自解釈にすぎないが、「昆虫と哺乳類ぐらい違う」ものだということを上記の記事では言いたいのではと思う。

アスペルガーHSPもなんだかやけに過敏で人とやっていきづらいところまではよく似ている。

http://hspjk.life.coocan.jp/selftest-hsp.html

こちらのサイトで計測可能だ。手動だけど。
14点以上でHSPの可能性があるという。
私も計測してみようか…どれどれ
…24点。
これ、当てはまらない人いるの?ってぐらい私にはよくあることばかりで少しばかり驚いた。


だが、もう一度言うと、アスペルガー症候群HSPは、対極の関係だと言われている。

アスペルガー者にとっては自分以外は物体で、モブであり、そのへんの石ころのオブジェクトと何ら変わらない。
だからうるさい同級生につらくあたる、はっきり言い過ぎて相手を傷つけるが本人は全く自覚がない等の問題が頻発する。
若しくはそこからの自他の認識の変化に乏しいために、愛着形成が難しいというところが多分にあると思う。
理を詰めることで相手に自分の罪を理解させ、反省させるところまでが私の怒りの大方の流れなのだ。
それでも時々激高するけれどもあれはパニックに近いものがある。これを健常者に伝えるのは難しいが、例えようと精一杯の努力をすると、
あの時には重力が突然向かって左向きに変わって、体が横滑りしていくかのような衝撃と不安と、精神的負担に苛まれているのだ。

それに対してHSP者は他人の認識自体には問題が少ないように思える。
自身が感じすぎて、うるさい環境や相手と関わるのがしんどい、怖いと思うことがあっても、
その後に相手に暴力的になるということが少ないのではと思う。たとえ耐えきれなくなりそうなってしまっても必ず自覚し後悔することが出来る。
それは相手の痛みや気持ちを理解する能力に長けているからだ。

ただここで一つ問題がある。HSPというものは精神医学的に承認されている病、障害ではなく、ある心理学者たちと一部の精神科医が勝手に申し立てているものに過ぎないということだ。

HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)に医学的根拠はない〜遺伝的に特別敏感な人々 - にごらない

この記事の考察は非常にに秀逸です。私のこんなダラダラした駄文を見ている場合ではありません。必見です。

そしていろんな過程を経て、この概念自体相当アヤシイと感じた。
単純な論理に基づいて行動するアスペルガー者をわざわざ違うと心理学者が定義付けして、
その他の発達障害者同士で馴れ合っている概念、集団というのは傍から見ていて違和感を感じざるを得ない。
つまり…


※ここから本筋であり、それ故かなり言葉が悪くなりますので、
敏感さに自覚のある方は読まないで下さい。文句も言わないで下さい。それらは私には無意味です。

さて、アスペルガー症候群の者たちはしばしば他人から貰ったり自分で作り上げた論理やルールに引っ張られやすいと言われる。
こんな経験はないだろうか。
学校では授業中に騒いではいけないというルールを覚えた後、騒ぐ生徒を見たアスペルガーの生徒。
…その生徒が教師に叱られるのを黙って待っていればいいのに、
そのアスペルガーの生徒は「ルールに反している」という旨のことを相手に厳しい口調で言ってしまう。
そして、相手の生徒と大喧嘩になり収集がつかなくなり、その後それを見ていたものからすら距離を置かれる。
「授業中は静かにといっているのに守らないやつがいるから叱った」という一つの目線でしかものを見れないアスペルガー者にはよくあるエピソードである。

そしてアスペルガー者は騙されやすいとよく言われるが、極端という方が近い。
自分の経験、学習してきたものに対しては忠実で、
それから逸脱するものを全く信用しないし、矛盾や欺瞞に関しても強い不快感を覚える。
逆に自身の触れたことのない分野のものを他人に言われると違和感なく信じてしまい、コロッと騙される側面もある。
そんな診断済のアスペルガー者の私は「アスペルガーHSPは対極で、相反するもの」という一文を見て、このHSPという概念の目的を考え始めたのである。

HSPに関する書籍はいくつかあるようだし、インターネットで検索すると山ほど出て来る。
大抵、殆どのHSPを話題にしたサイトには、
「貴方はHSPという特別な素質をお持ちです。優しくて、良心的て、そして敏感で、感受性が高すぎてお疲れでしょう。でも貴方は一人じゃない。貴方は特別で素晴らしい。仲間はここにいますよ(この辺でスピリチュアルサイトへのリンクが貼られ始める)是非カウンセリングを受けて自分にもっと優しくしてあげましょう。」
ほぼこんなことが書いてある。

所謂霊感商法という、頭の弱い人から金を巻き上げるためのものがある。
論理的思考能力に欠ける者には詐欺というギフトが必ず用意されているものなのだ。

私は月刊ムーを読むのも年末の特番を見るのも大好きだし、何より日本人口の1パーセントにすぎないと言われるクリスチャンだし、
そんな私がこんな身も蓋もないことをいうのは大変心苦しいのだが、
「耳あたりの良い言葉や表面上思いやりのある言葉には、大抵虚しい未来が裏に隠されている」
という考え方の私には、どうもこのHSPというものを受け入れることができない。

誰しも自らの感受性に悩むもので、誰しも人間関係でもめる。
そして誰しも一人で考え込みたくなる時はあるし、大体、感受性が強いからなんなんだという話にもなってしまう。

アスペルガー者の中にはこういう案件に関して非常に冷え切った感情を持つものがいる。そして矛盾に対しても激しく言及する。
だから「アスペルガーHSPは対極だから、併せ持つことがない」という言葉の裏には、
アスペルガーって面倒な奴らだし強情だから商売相手にならん」という意図が隠されていると私は思わなくもないのである。
まあ、偏見と言えばそうなのだが、一方で、精神でもそうでなくても、
医学的に認められてない概念や治療法を医者を通さずに丸腰で突っ込んでいく危険性は皆様御存知の通りであろう。
「肉を食べなくなったらガンが治った!」のような民間療法の有象無象がそれを教えてくれる。



そして、「私は感受性が強いから特別なんですぅ~優しくして~」と自称HSP者から言われた時の周りの冷え切った空気を、自称HSP者が感じ取っている例を見たことがない。
空気を知らないことでお馴染みのアスペルガーの私ですら「あぁ!ヤバい!一刻も早くここから逃げ帰りたい!」と思うほどの大惨事なのに。


現実も夢も気持ち悪いよⅡ

人間は人を死ぬように仕向けておきながら、仕向けられた相手がいざ死にそうになると、
自分の責任と周りに思われたくないから、死ぬなと言い出すんです。
なんというかものすごく勝手な生き物ですね。

私は生きてても幸せなときなんて厳密に考えれば存在しないのですが、
人に生きてほしいと言われるから死なないでいるという状態です。
重力や、目に見えるものや、騒音や、服の感触
色々なものが私にとって気持ち悪くてしょうがないのです。

…ここが前回までの話で、
今はなにが伝えたいんだっけ。何もしたくないし生きているのが辛い。
それぐらいしか考えてることがない。
頭が壊れるために、壊れたモルモットを見つめる人々のために生まれたんだろうか、私は。
勿論、そうならそっちのほうがまし。
何のためにもならない人間なんて、死んだほうがいいという言葉が皆の眼差しになって、
私に死なない程度の勢いで突き刺さるよりは。

現実も夢も気持ち悪いよ

最近気づいたんだけど、
死にたいんじゃなくて、最初から生きていたくなんかなかった。
生きる時の何かが触れる感触、何かが擦れる音、光がもたらす刺激。
それらすべてに違和感と嫌悪感を味わい続けていたんだ。
私はこの世自体が気持ち悪くて仕方がない。
それなのに、周りの人間達は何故この世を愛し受け入れることを強要するのだろう。
何故それが前提としてあることが当たり前だと思いこんでいるのだろう。
人間はどれだけ表向きでこの世を恨んでいても、労働や遊びに自らの体を預け、その報酬に喜んでいるならばこの世界を偶然にも受け入れられたのだろう。
何か一つでもやりがい 楽しみがあれば

私は寝ることにすら疲れと吐き気を感じている。

つまんない

退屈退屈、たいくつ
昔買った遊佐未森のCDに
あきない、たいくつ
だとか書いてあったけど
退屈は飽きてる状態なんじゃないかな
この世に。

はぁ

絵(コラ)

見えているのはこういう感じです。

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みんなおやすみ

植物からの視線

最近本格的に植物が目玉をこちらに向けて何かをアピールしてきているというひどい幻覚が常に見えるようになってしまった。
植物の周りにいる小さい女も未だに消えない。
植物に限ったことならまだ良いし、絵の題材にもなれる。
こういう感じで…。(パブリックドメインの写真の上にそのまま描いてます)

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草間彌生みたいになってますね。実際草間彌生の作品とか見ていると監視されている気分なので同じようなものなんだと思います。
このまま世界の全身が丸い瞳に覆われてしまうのではないかと思うと心配になる。
はぁ。散歩にでも行こうかなぁ。