空気のにおい

びょうきのブログ

障害者は子を産むなだって?いや、そもそもこんなところで子を産むこと自体が誤りだからね。

日本人の価値観は概ね狭い割に漠然としている。
民主主義の顔をしているが、実際には最大多数の最大幸福への具体的な考えどころか、そもそも功利主義というものすら知らない者が多い。

染色体異常児の堕胎という議題ひとつにおいても、
「その子供自身の出生後の幸福が約束されるか」よりも、
「真面目に働いて血税を払っている自分達がその子供のせいで不利益を被るかどうか」の方が重要だという考えの人も少なくないと感じる。

そんな人間たちを目の前にして、誰が子を幸せにできるのだろうか。
自分が偶然健康であることにしか誇りがないような、寂しい人間を優先する世界に未来があると信じている者たちは、
まさか福祉をあくまで額面上だが推し進めている日本に居座る資格があると思っているのだろうか。
どんな人間でも、動物でも、痛みや快を知っているのなら誰もその命そのものに口出しする権利などないにも関わらずである。

障害者や、障害児を産んだ親に石を投げるような人間が周りに一人でもいるならば私は健常児すら産むべきではないと思う。
子が意識のない胎児の段階で検査して、異常が見つかれば中絶するということは、今では不妊治療の現場等で行われている。
だが、それをしたからといって絶対に健常児が生まれるわけではない。
殆どの知的障害は原因不明で、殆どの自閉症も原因不明だ。原因遺伝子が分からない疾患も数多くある。
「健常児以外お断りだから生まれる前に遺伝子検査したのに、生まれて数年で検査ではわからない障害が見つかった。生きる希望を失った。早く死んでほしい。」
折角生まれてきて、無限の可能性を秘めていて、必死に愛を求めている我が子に対し、ここまで冷酷になれる親も残念ながら存在するのだ。

そしてめでたく健常児が生まれたとしても、その子供が人生において親である自分のプライドを傷つけずに、
順調に教育を受け、就職して、老後は世話してくれるという存在になることは、今の日本では非常に難しいことであるのは百も承知のはずだ。
いくら財産を持っていようと、後天的な病や事故は容赦なく襲ってくるものだし、完全治癒、寛解する病などまだまだ氷山の一角である。
どれだけ選別しようが障害児は永遠になくならない。なぜなら必要だからだ。
本当に不要であればはじめから生まれてこない。
もし、未知のウイルスから来る病に多くの人々が苦しめられることが将来あるとすれば、それに対する抗体を持っているのは、
今また産声を上げた、または上げられなかった障害児なのかもしれないのだ。
タマゴを産めるメスの鶏がどれほど人間の目線で優れていようと、オスの鶏がいなければ子孫を残すことは儘ならない。
私が言いたいのは、遺伝子というものをそう簡単に理解したつもりになるなということと、
親個人ですらその子がどうなっても愛する覚悟がないなら、子を産む事自体が誤りであるということだ。

そもそも、親が虐待死させるまで子供を放置する近隣住民や、まるで機能していない児童相談所にあふれ、
尚且つ保育園一つ建てることにごちゃごちゃうるさい連中が、貧しい権利を振りかざして建設を辞めさせようとするようなこの国に、
これからの子育てそのものが務まるわけはないのだから、現状、産まないことが正解なのである。



彼らはどうするつもりなのだろう。「見かけ上の利益」「保身」「見栄」に拘りすぎて、自らが人であらざるものになりかけているというのに、
どうなるかなど最後まで分からない胎児に対して審判を下す資格があると勝手に思い込んでいるのだ。

私には彼氏はいるが、私が性恐怖症のため、おそらく自分の遺伝子はここで終わるのだろうと感じている。

障害や病を抱えた子や大人が著しい苦しみを感じている場合の倫理的な死の権利を、政府が認めない限り、私はどんなかたちの子だろうが、それらを産む事自体に疑念を感じ続けるであろう。
それは私が、生そのものこそが極上の幸せであるとは、まったく考えていないからである。

何故弱者に支援が行き渡らないのか。何故合理的配慮の重大性を理解しないのか。
この著書を読むと、日本の福祉が砂上の楼閣に過ぎないものであることが如実に分かるであろう。


「僕だって普通に生きたかったよ―ある自閉症児の生涯」

http://amzn.asia/2Kp2T4U

HSPとは?何?なんだそれ?アスペルガーとの表裏

あの…いきなり申し訳ないのだが結論から言うと私はHSPではない。
アスペルガー症候群HSPは同期しないからだ。

↓参考にて…

生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち | いつも空が見えるから


例えるならなんだろうか。
収斂進化というものがあるが、これは生物学的分類では元々全く違うものが、
見た目上で同じ役割を果たしている器官や形態なんかを言う。
わかりやすいのはモグラとオケラの土を掘るために特化した足だろうか。
独自解釈にすぎないが、「昆虫と哺乳類ぐらい違う」ものだということを上記の記事では言いたいのではと思う。

アスペルガーHSPもなんだかやけに過敏で人とやっていきづらいところまではよく似ている。

http://hspjk.life.coocan.jp/selftest-hsp.html

こちらのサイトで計測可能だ。手動だけど。
14点以上でHSPの可能性があるという。
私も計測してみようか…どれどれ
…24点。
これ、当てはまらない人いるの?ってぐらい私にはよくあることばかりで少しばかり驚いた。


だが、もう一度言うと、アスペルガー症候群HSPは、対極の関係だと言われている。

アスペルガー者にとっては自分以外は物体で、モブであり、そのへんの石ころのオブジェクトと何ら変わらない。
だからうるさい同級生につらくあたる、はっきり言い過ぎて相手を傷つけるが本人は全く自覚がない等の問題が頻発する。
若しくはそこからの自他の認識の変化に乏しいために、愛着形成が難しいというところが多分にあると思う。
理を詰めることで相手に自分の罪を理解させ、反省させるところまでが私の怒りの大方の流れなのだ。
それでも時々激高するけれどもあれはパニックに近いものがある。これを健常者に伝えるのは難しいが、例えようと精一杯の努力をすると、
あの時には重力が突然向かって左向きに変わって、体が横滑りしていくかのような衝撃と不安と、精神的負担に苛まれているのだ。

それに対してHSP者は他人の認識自体には問題が少ないように思える。
自身が感じすぎて、うるさい環境や相手と関わるのがしんどい、怖いと思うことがあっても、
その後に相手に暴力的になるということが少ないのではと思う。たとえ耐えきれなくなりそうなってしまっても必ず自覚し後悔することが出来る。
それは相手の痛みや気持ちを理解する能力に長けているからだ。

ただここで一つ問題がある。HSPというものは精神医学的に承認されている病、障害ではなく、ある心理学者たちと一部の精神科医が勝手に申し立てているものに過ぎないということだ。

HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)に医学的根拠はない〜遺伝的に特別敏感な人々 - にごらない

この記事の考察は非常にに秀逸です。私のこんなダラダラした駄文を見ている場合ではありません。必見です。

そしていろんな過程を経て、この概念自体相当アヤシイと感じた。
単純な論理に基づいて行動するアスペルガー者をわざわざ違うと心理学者が定義付けして、
その他の発達障害者同士で馴れ合っている概念、集団というのは傍から見ていて違和感を感じざるを得ない。
つまり…


※ここから本筋であり、それ故かなり言葉が悪くなりますので、
敏感さに自覚のある方は読まないで下さい。文句も言わないで下さい。それらは私には無意味です。

さて、アスペルガー症候群の者たちはしばしば他人から貰ったり自分で作り上げた論理やルールに引っ張られやすいと言われる。
こんな経験はないだろうか。
学校では授業中に騒いではいけないというルールを覚えた後、騒ぐ生徒を見たアスペルガーの生徒。
…その生徒が教師に叱られるのを黙って待っていればいいのに、
そのアスペルガーの生徒は「ルールに反している」という旨のことを相手に厳しい口調で言ってしまう。
そして、相手の生徒と大喧嘩になり収集がつかなくなり、その後それを見ていたものからすら距離を置かれる。
「授業中は静かにといっているのに守らないやつがいるから叱った」という一つの目線でしかものを見れないアスペルガー者にはよくあるエピソードである。

そしてアスペルガー者は騙されやすいとよく言われるが、極端という方が近い。
自分の経験、学習してきたものに対しては忠実で、
それから逸脱するものを全く信用しないし、矛盾や欺瞞に関しても強い不快感を覚える。
逆に自身の触れたことのない分野のものを他人に言われると違和感なく信じてしまい、コロッと騙される側面もある。
そんな診断済のアスペルガー者の私は「アスペルガーHSPは対極で、相反するもの」という一文を見て、このHSPという概念の目的を考え始めたのである。

HSPに関する書籍はいくつかあるようだし、インターネットで検索すると山ほど出て来る。
大抵、殆どのHSPを話題にしたサイトには、
「貴方はHSPという特別な素質をお持ちです。優しくて、良心的て、そして敏感で、感受性が高すぎてお疲れでしょう。でも貴方は一人じゃない。貴方は特別で素晴らしい。仲間はここにいますよ(この辺でスピリチュアルサイトへのリンクが貼られ始める)是非カウンセリングを受けて自分にもっと優しくしてあげましょう。」
ほぼこんなことが書いてある。

所謂霊感商法という、頭の弱い人から金を巻き上げるためのものがある。
論理的思考能力に欠ける者には詐欺というギフトが必ず用意されているものなのだ。

私は月刊ムーを読むのも年末の特番を見るのも大好きだし、何より日本人口の1パーセントにすぎないと言われるクリスチャンだし、
そんな私がこんな身も蓋もないことをいうのは大変心苦しいのだが、
「耳あたりの良い言葉や表面上思いやりのある言葉には、大抵虚しい未来が裏に隠されている」
という考え方の私には、どうもこのHSPというものを受け入れることができない。

誰しも自らの感受性に悩むもので、誰しも人間関係でもめる。
そして誰しも一人で考え込みたくなる時はあるし、大体、感受性が強いからなんなんだという話にもなってしまう。

アスペルガー者の中にはこういう案件に関して非常に冷え切った感情を持つものがいる。そして矛盾に対しても激しく言及する。
だから「アスペルガーHSPは対極だから、併せ持つことがない」という言葉の裏には、
アスペルガーって面倒な奴らだし強情だから商売相手にならん」という意図が隠されていると私は思わなくもないのである。
まあ、偏見と言えばそうなのだが、一方で、精神でもそうでなくても、
医学的に認められてない概念や治療法を医者を通さずに丸腰で突っ込んでいく危険性は皆様御存知の通りであろう。
「肉を食べなくなったらガンが治った!」のような民間療法の有象無象がそれを教えてくれる。



そして、「私は感受性が強いから特別なんですぅ~優しくして~」と自称HSP者から言われた時の周りの冷え切った空気を、自称HSP者が感じ取っている例を見たことがない。
空気を知らないことでお馴染みのアスペルガーの私ですら「あぁ!ヤバい!一刻も早くここから逃げ帰りたい!」と思うほどの大惨事なのに。


現実も夢も気持ち悪いよⅡ

人間は人を死ぬように仕向けておきながら、仕向けられた相手がいざ死にそうになると、
自分の責任と周りに思われたくないから、死ぬなと言い出すんです。
なんというかものすごく勝手な生き物ですね。

私は生きてても幸せなときなんて厳密に考えれば存在しないのですが、
人に生きてほしいと言われるから死なないでいるという状態です。
重力や、目に見えるものや、騒音や、服の感触
色々なものが私にとって気持ち悪くてしょうがないのです。

…ここが前回までの話で、
今はなにが伝えたいんだっけ。何もしたくないし生きているのが辛い。
それぐらいしか考えてることがない。
頭が壊れるために、壊れたモルモットを見つめる人々のために生まれたんだろうか、私は。
勿論、そうならそっちのほうがまし。
何のためにもならない人間なんて、死んだほうがいいという言葉が皆の眼差しになって、
私に死なない程度の勢いで突き刺さるよりは。

現実も夢も気持ち悪いよ

最近気づいたんだけど、
死にたいんじゃなくて、最初から生きていたくなんかなかった。
生きる時の何かが触れる感触、何かが擦れる音、光がもたらす刺激。
それらすべてに違和感と嫌悪感を味わい続けていたんだ。
私はこの世自体が気持ち悪くて仕方がない。
それなのに、周りの人間達は何故この世を愛し受け入れることを強要するのだろう。
何故それが前提としてあることが当たり前だと思いこんでいるのだろう。
人間はどれだけ表向きでこの世を恨んでいても、労働や遊びに自らの体を預け、その報酬に喜んでいるならばこの世界を偶然にも受け入れられたのだろう。
何か一つでもやりがい 楽しみがあれば

私は寝ることにすら疲れと吐き気を感じている。

つまんない

退屈退屈、たいくつ
昔買った遊佐未森のCDに
あきない、たいくつ
だとか書いてあったけど
退屈は飽きてる状態なんじゃないかな
この世に。

はぁ

絵(コラ)

見えているのはこういう感じです。

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みんなおやすみ

植物からの視線

最近本格的に植物が目玉をこちらに向けて何かをアピールしてきているというひどい幻覚が常に見えるようになってしまった。
植物の周りにいる小さい女も未だに消えない。
植物に限ったことならまだ良いし、絵の題材にもなれる。
こういう感じで…。(パブリックドメインの写真の上にそのまま描いてます)

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草間彌生みたいになってますね。実際草間彌生の作品とか見ていると監視されている気分なので同じようなものなんだと思います。
このまま世界の全身が丸い瞳に覆われてしまうのではないかと思うと心配になる。
はぁ。散歩にでも行こうかなぁ。